創業70周年 オノデン 小野社長様インタビュー

今年、2021年6月30日に創業70年を迎えた株式会社オノデン。創業者である小野仁助氏のエピソードを皮切りに、オノデンのモットーや秋葉原電気街の歴史についてなど、3代目となる現社長、小野一志氏に様々な質問にお答えいただきました。

あらためまして創業70周年おめでとうございます!本日は宜しくお願い致します。
早速ですが、オノデンさんは、1951年(昭和26年)に小野電業社(1975年に現在の株式会社オノデンに社名を変更)として秋葉原で創業されたそうですが、なぜ、秋葉原という場所を選ばれたのでしょうか?

創業者の小野仁助は、中学校に入るか入らないかぐらいの時に秋田から出てきましてね。下駄屋とか小売商で奉公し、電気屋関係に勤めて独立したのが1941年頃。その後、戦争に行って、帰ってきたときに秋葉原で商売を、って考えたようですよ。
私が生まれたのは昭和28年なんですが、物心つく頃には、秋葉原は既に電気街、昔は電気問屋街って言いましたけど、そういう街として機能していました。

小野社長ご自身がオノデンに勤めたのはいつのことですか?

大学を出て先ず、鉄鋼商社に勤めたんですよ。そこに9年間いました。オノデンには31歳の時に入りましたから、だいぶ経ちますね。

長年に渡り電器製品の販売に携わってきて、オノデンさんの売れ筋商品にどのような変化がありましたか?

戦後、みんなの暮らしがよくなった頃は、電球1つ買うのでもお客様は秋葉原に来ていました。昔は大晦日に家をきれいにするのに換気扇から電球から何からすべて変えていましたからね。大晦日はお客様が帰らなくて店閉められないってこともあったらしいですよ。よそにこういう電気店街がありませんでしたから。

秋葉原での年末の買物は風物詩のようになっていたんですね。

私が小学校高学年から中学校の時は、ステレオがブームでしたね。
それ以前は冷蔵庫とか洗濯機のような白物家電が売れていましたけど、段々と生活にゆとりができて、これまで電蓄(電気蓄音機)しかなかったのが、パイオニア、サンスイ、ビクター、トリオなどが、アンサンブルステレオっていう大きなシステムステレオを出したんですね。
ほかにも東芝がAurex(オーレックス)、パナソニックはTechnics(テクニクス)、シャープはOPTONICA ( オプトニカ)、サンヨーはOTTO(オットー)、日立はLo-D(ローディー)と、とにかく各社、そういうサブブランドを作って、猛烈にステレオを売り出したんですよ。
レコードもSPからLPに変わっていって・・・
若い人たちはビートルズとかべンチャーズを聴いていましたけど、そういうステレオで聴くと、電蓄と違って全然迫力がありまして、日常生活のためだけでなく、趣味にも電気製品が出てくる時でしたね。
大学生とかみんな、バイトして、月賦で買ったりしていましたよ。
その頃は、比較的安いAIWA(アイワ)ってブランドがあって、学生はお金があまりないから、AIWAの商品が学生によく売れていましたね。
ステレオのブームはそれなりにずっと続いてその後、ウォークマンとかがどんどん出て来てオーディオのカテゴリが進化するわけですよ。

当時のステレオブームはすごかったんですね。

そこに時期は少しずれますが並行する形でワープロが入ってきます。ワープロは一時、稼ぎ頭でしたね。10万、15万もするのに、お客様は大体、持ち帰ってくれてましたから。単価が高くて、持ち帰ってくれて、そんな大きくないから倉庫はかさばらないし、ワープロの商売って言うのは、非常にありがたい商売だったですね。

パソコンの先駆けですね。

そうした流れの中に、マイコン(マイクロコンピュータ)とかMSXとか、現在で言うパソコンが新しい取扱品目として出てくるわけです。まぁ、使う目的はゲームでしたけどね、みんな、ゲームをやるために秋葉原でパソコン買ってましたよ。
その後に8801、9801っていうNECのパソコンが出てきて・・・最初はそれもゲームを目的にしていたみたいですけどね。
私が入社した頃には、オフコン(オフィスコンピューター)がだいぶ小さくなって、会社でも大福帳からデジタル化が始まったんですね。Lotus1-2-3とか一太郎がでるかでないかっていう頃ですよ。
それが Windows95が出てきてから劇的に変わったんですよ。
あれで秋葉原は家電の街からパソコンの街になったという評価を受けるようになったんです。

Windows95の発売で秋葉原がさらに盛り上がった理由はどうしてでしょうか?

Windows95が出た頃、地方の電気店ではパソコンは高いから、全部ラップに包んであったんですね。だから触れられなかったんですが、秋葉原のお店に来れば触ることができた。だから会社で、”パソコン使うから勉強してこいー“って言われると、みんな秋葉原に週末になると来てたんですね。
ザ・コン(ラオックス ザ・コンピュータ館)では、パソコンの本も日本で一番売れていたみたいですよ。
会社で経理担当、パソコン担当になった人はみんな勉強しなきゃならないから、秋葉原に来て、パソコン買って・・・
それに、商品に詳しいパソコンメーカーの人が来てますからね、教えてもらって、買っていきましたよ(笑)

そうすると、電気部品→白物家電→オーディオ→ワープロ→パソコンと言った形で、電気街が変化してきたという感じでしょうか?

変化というよりは、積み重なっていったんですね。
変化を話すのはなかなか難しくて、物流についても触れないとなりません。
当時は日本津々浦々に家電メーカーの物流として十分な営業体制ができてなかったんですよ。
例えば、冷夏だったら扇風機が余る、暖冬だったらストーブが余る。でもその次の年も、作らなきゃならない・・・そうなると在庫をどこかに持って行かないと次のものが作れないじゃないですか。
そんな時に、秋葉原には電器屋がたくさんあって、現金問屋みたいに引き受けてくれたんですよ
秋葉原に行けば家電を安く売ってる、秋葉原は問屋だから安い、それで秋葉原にどんどん物や人が流れてくる。
本当かどうかはわかりませんけど地方からはじまった家電量販店の方も仕入れに来ていたっていう話もあります、たしかに地方はまだそういう流通ができてなかったから、秋葉原行って現金で買ってきた方が安いってなったんだと思うんですね。

ということは、秋葉原電気街は小売りよりも問屋としての発展が先だったということでしょうか?

そうですね。
問屋専業になったところもたくさんあるんですよ。問屋の方が説明しなくても済むし、量がはけますからね。

秋葉原に電器の問屋さんが集まってきた理由のひとつに、戦後、電気部品を扱う店が集まったという流れもあるのでしょうか?

電器店には2つの系統があるんです。
一つは元問屋を流れとする店舗、もう一つは元技術職の兵隊さんや通信兵が戦争で引き揚げてきて、日本軍が隠してた真空管やら、アメリカ軍が使わなくなったラジオの部材を集めて始めた露天商を流れとする店舗、この2つがあるんです。そんな中で電器店の問屋の流れの「礎」となる人がいたんです。

それは秋葉原電気街の歴史の中でも、とても関心深いですね。

戦前の話ですが、富山から廣瀬太吉さんという方が志を持って上京してきました。
廣瀬さんは秋葉原界隈の羅紗問屋(=毛織物問屋)に勤め、そこで真面目に一生懸命商売をやっている時、お客様から“これからラジオというものが始まるらしいんだけれども、あなたもそれを扱ってみてはどうかね”という話を頂いたそうです。それで、廣瀬さんが独立して、ラジオの卸みたいなことを始めるんです。
また羅紗問屋で働いていましたから、すでに地方に問屋さんのルートを持っていたようなんですね。
例えば、長野県ではラジオ放送はまだ始まっていなかったけれど、“再来月からラジオが始まるよ、そうするとラジオってのが売れるよ”って話をして、販路をつくるんです。
その時に“売れた分だけお金もらえればいいよ”と言って、富山の置き薬売りと一緒の売り方をするわけですね。

なるほど、そこで富山出身であることも、商売に繋がってくるんですね。

そうやって販路を作って、廣瀬無線電機さんができたんです。
それで商売を始めると、東京にも何軒か、そういう問屋さんが出てきたんですね。
そうした同業の人たちに、廣瀬太吉さんが、“日本橋横山町に行くと、同じ繊維問屋がたくさん集まってて、お客さんがたくさん来ている。電気屋もああいう風にやればお客様が来るんだよ”って一生懸命呼び掛けたんです。
山際電気商会さん(現YAMAGIWA)とか、朝日無線電機さん(現ラオックス)とか、志村無線電機さんに“秋葉原においでよ”って声をかけたおかげで、戦前に秋葉原に電気の問屋さんが何軒かできたわけです。
そして戦後になって、その問屋さんたちが自分で小売りも始めたんですね。
そこに、GHQの露店撤廃令により電気部品の露店商も集まり、電気街が形成されていくんです。
だから一番の功労者は、廣瀬太吉さんだと、私は思ってるんですね。

確かに、廣瀬太吉さんがいらっしゃらなかったら、秋葉原電気街は出来ていなかったかもしれないですね。
後は時代のニーズに合わせた様々な商品が積み重なりながら電気街が形成されていったということでしょうか?

白物家電からステレオに流れがシフトしたときに、“明日からうちは電球売るのやめてステレオ売ります”っていうことではないですよね。電球を売ってたところに尚且つ明日からラジオも売ろう、明後日からはステレオも売ろう、その次からはパソコンも売ろう、と段々扱う品目が重なっていくわけです、十二単みたいに。
そんな風に、街も、今でも電球売ってる店があって、LANケーブル売ってる店もあって・・・街そのものの色が変わったんじゃなくて、塗重なっていく、そうして街ができてきたって感じですね。変わったんじゃなくて、積み重なって、地層みたいになっているんです。

そんな中、オノデンさんが長くご商売を続けられている秘訣はなんでしょうか?

「目が届く範囲でしか商売はやらない」という基本的なスタンスでしょうか。
昭和40年代くらいになると、秋葉原の電器屋さんは猛烈な勢いで郊外に進出するんです。そうすると他社がどんどん年商を増やしていくわけですからオノデンの社員はやっぱり動揺するんですね。1店舗でやっているのと、5店舗、10店舗でやっているのでは全然違いますから相対的にうちは地位が低下していくわけです。そうすると社員から“うちも出店しましょう”という声も出ます。また、メーカーさんからも“ぜひやったらどうですか”って話も頂きました。でも、うちは頑として出さなかったんですよ。それが結果として”何にもしなかったから残った“って話になったんです。

なるほど…

みんな景気よく出ていったんですけど、その頃はいろいろと行政の法的な規制もあって、150坪までしかチェーン店って出せなかったんですよ。でも規制が変わると、500坪、1000坪の店が出せるようになるわけです。そうすると、最初に150坪で秋葉原の何とか電気ですと銘打って出店したところは、お客様がたくさん来ていたのに、その隣に、北関東から5倍くらいあるお店が出来たときに、勝てなくなってしまう。結果として全国的に、そういう出店して残ったのは、ジョーシン(上新電機株式会社)さんだけでしたね。だから結果として「目が届く範囲でしか商売はやらない」というのが良かったという(笑)

「目が届く範囲でしか商売はやらない」という経営理念以外に、“親切な電器屋”というキャッチコピーを掲げていますよね。

そんな立派なもんじゃないですよ。親切な電器屋というキャッチコピーは、みんながやってきた結果なんです。
長い間商売やってるとやっぱりお客様のところに行かないと解決できないものも出てきます。
お客様のところに伺うと、ついでに別の相談をされて解決して帰ってくるということが度々重なるようになったんですね。
お客様に感謝して頂けると、こちらもうれしいし、社員それぞれが“また今日も親切な電器屋さんやっちゃったよ”って帰って来てから言うわけね。お客様の言う通りやってると、自然と“親切な電器屋”になっているというわけです。
だから、うちの会社は“してもいいし、しなくてもいい、どうしよう”となったときに、“親切な電器屋”を社訓にしてるんで、“じゃ、やりましょ”ってことになるんです。

そういえば、以前オノデンさんで電子レンジを購入した際、最新の機能の付いた高額商品より、使用目的を聞かれ、それに合った値頃な商品を勧められたのですが(笑)

何を買えば、お客様の要求に一番合っているのか、が大事でね。お客様に本当に満足して頂くための商品選びなり、売り方なり、使い方なり、あるいは接客の仕方なりを考えないと・・・。お客様も社員も共に高齢化が進みますから本当にその機能は必要なのか、使いやすいのか、それをちゃんとやらないと、お互いに不幸せな結果になってしまいますね。
お客様にとってベストであるという選択肢を考えてあげて、それを提案しないとだめだなと思ってます。

そういえばオノデンさんは自社便の配送サービスもやっていらっしゃるんですよね?

そうですね、地域の電気店さんは別として、量販店や私たちも一部そうだけれど、配送業者さんに委託するわけです。
そうするとお客様が各メーカーの最新情報をもとに、配送業者さんに“これどうやって使うんだ”って聞いても、業者さんは設置はできても、商品説明できないですよね。
だからそうしたギャップを埋めるために、できるだけ自社便を使っているんですね。

しかもその自社便も、売り場の担当の方が行かれることもあるとお聞きしたことがあるのですが…。

行く場合も多いですね。
そうすると話が早いんです。例えばお客様が、売り場に照明を買いに来て、“これにします。でも私のうちの天井、少し斜めになってるから、つけられるのかどうかわからない”という話になったときに、売り場の担当が“取り付けに来ましたよ”って来たら安心でしょ。

確かにそれはネットで買うのとはまったく異なる安心感ですね。
話は変わりますが、小野社長が店頭に立つ姿をよく見かけるのですが、なぜ今でも店頭に立たれるのでしょうか?

例えば店頭で、“この商品、どこで売ってますか”って聞かれたら、“3F にありますよ”ってご案内できますね。それで、その方が何も買わずに降りてきた時には、“なんでこの人は買わなかったんだろう?”って考えるわけです。それで3Fに行って理由を調べるんですね。
自分が事務所にいたんじゃ、帳簿上、売り上げが無かったことしかわからないですよね。
お客様がどうやって入って、どうやって出ていくか、を見届けないと。だから店頭に立つんです。
お客様にお礼を申し上げることもできますし。
時間があったら、朝から晩までなるべくならそういうことをしようと思ってます。

店頭に立っていて秋葉原の街のことで気になることはありますか?

単純に人が多いな、少ないなとか、こんな服装している子たちが増えたなとか、見ていますね。
それは全部商売にも繋がっていくと思ってます。今年の目標は、“街の変化を見逃さず、半歩先行く商材を!”です。
例えば、今、トレーディングカードさんが流行っているじゃないですか。そう言った変化も見ていないと、わからないですよね。

コロナ禍で海外からインバウンドのお客さまも来られなくなりましたが、お客さまの変化についてはいかがですか?

海外の方もですが、うちは比較的ご年配の方のお客様が多いんです。そういう方たちが一番怖がって出てこないですよね。だから店舗の方は苦戦してますよ。

オノデンさんは、店舗以外に行商、オンラインで販売されてますが、コロナ禍での軸は、やはりオンラインなのでしょうか?

オンラインの比率は高くなっていますが、弊社は千代田区にある会社なので、法人の顧客が極めて多いんです。これが大きいでしょうか。法人から個人まで、本当に様々なお客様にお世話になっています。

今後のオノデンさんの取組みついてお聞かせいただけますか?

電器製品は生活必需品ですので、これまで通り、お客様にとって何が必要なのかということと、壊れたら本当に困るので対応を早くするということは、店舗にとってもとても大事なんです。
だから例えば、届け先が都内だったら、オンラインで買って頂いた商品でも社員が届けるとか、そこまでやります。
それプラス、秋葉原と言う地の利を活かして、これからも商売していきたいと思います。

最後に秋葉原電気街振興会、会長として、コロナ禍が明けたらインバウンドのお客さまに向けて何か考えていらっしゃいますか?

コロナがひと段落したら、やっぱり日本には来てくれると思うんですよ。
ただ、その日本の中で都市間競争なり、あるいは東京での地域間競争で秋葉原が勝ち抜くためには、“やっぱり秋葉原は良いね、おもしろいね、楽しいね”って魅力をもたないといけないと思いますね。
そういうことを考えていかないと、少なくとも日本に来てくれているけれど、秋葉原に来なくなってしまう。
少なくとも“あそこだけは楽しかった!”っていうのが、1個でも2個でも秋葉原のセールスポイントっていうか、海外の人から見て、おもしろいところ、いいところっていうのを作っていかないといけないと思います。

本当にそうですね!秋葉原がより魅力的な街になるように、私たちも何ができるかを考え、行動したいと思っています。
本日はお忙しい中、またコロナ禍という大変な時期にインタビューにお答えいただき本当にありがとうございました。今後とも宜しくお願いいたします。